幸せを感謝し幸せを祈ります  〜 武田 紀(とし) さん 〜

 (1)「おばあちゃん」の魂   (2004.8.2)

 (2)豊かな感性         (2004.9.1)

 (3)家族            (2004.10.1)

 (4)頼み上手         (2004.11.1)

 (5)青涛の家からの手紙  (2004.12.28)

 (6)主の平安(青涛の家からの手紙) (2005.12.8)

 (7)おばあちゃんの遺言  (2006.4.3)

 (8)青涛の家からの手紙    (2006.12.8)

 (9)無給・無休・無窮     (2007.6.1)

 (10)青涛の家からの手紙  (2007.12.27)  

  (11)シモンズ神父様ありがとう (2008.6.12)



(1)「おばあちゃん」の魂

 武田紀(たけだ とし)さん(以下、紀さんと記す)は、昭和23年1月〜平成元年3月まで博愛園の園長として41年間以上園児と生活されました。岡上菊栄(おかのうえきくえ)さんの魂を引き継ぎ、私生活、私財の全てを投入して子供達と暮らし、子供達の幸せをいつも祈って いました。 そして、その事を常に感謝していました。それは、博愛園の職務を解かれてからも変わらず、今日現在も在園・退園を問わず博愛園で生活した(している)人達の幸せを祈っています。

 そして、いつまでも博愛園に関わる人達に「おばあちゃん」(岡上菊栄さん)の魂が引き継がれることを切に願っておられます。

 私が紀さんに初めてお会いしたのは、平成14年(2年前)7月の赤岡絵金祭りの日でした。毎年、博愛園のガールスカウトの団員(園児および職員)が赤岡の教会前に夜店を出しているのですが、その準備の手伝いに行った時でした。紀さんは私が博愛園でボランティア活動をしていることを聞いておられたようで、「まあ、まあ、ようおいでてくれました。」とあたたかく迎えてくれました。なぜか初めてお会いしたのに、懐かしい感じがし 、不思議な気持ちになった事を今でも強く覚えています。

 それ以来、何度か紀さんのところを訪れているのですが、なぜか自分の故郷に帰ったような気持ちになるのは今でも変わりません。きっと、紀さんの いつも変わらぬ「愛情」と「感謝の気持ち」がそうさせるのではないかと思っています。だから、これは私以外の多くの人も感じておられることではないかと思っています。

写真は今年(2004年)の絵金祭り・左奥で微笑んでおられるのが紀さん

写真は2004年の絵金祭り・左奥で微笑んでおられるのが紀さん

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(2)豊かな感性

 「豊かな感性」の持ち主。紀さんを一言で表せば、これではないでしょうか。来年には80歳になられる紀さんですが、どの年代の人と話をされても相手の話を良く聴き 、素早く理解して、感動し、感謝し、喜び、悲しみ、そして相手の立場に立ったお話を感性豊かな表現と表情でされます。また、話だけではなく手紙などの文章も流れるように読みやすく、文字や絵 一つ一つに紀さんの感覚が込められて伝わってきます。

 若くして博愛園の現場責任者となった紀さんの人生はハプニング(特に悲しい出来事)の繰り返しだったと思います。アフターケアもされていた紀さん(とシモンズ神父様)には悲しい便りも多かったようです。それでも「幸せを感謝」と心から言い切る紀さんの感性 から出て来るものには輝きがあり、まわりの人も輝かせるエネルギーがあります。

 その感性を作り上げてきた要素の一つが、博愛園の子ども達一人一人をじっくりと観察し、個性に応じた対応をしながら、それぞれをどうやって伸ばしていくかを真剣に考え行動していった結果の積み上げだと思います。そして、博愛園という、ある意味閉じた世界で生活しながらも、海外の方々とも交流し、海外の情報も積極的に収集して、外部環境の変化も敏感に感知されてきたからだと思います。

 今も博愛園の子ども達が、人を思いやる豊かな心を持ち、広い視野を持ち、そして物事に感動できる「幸せな人生」を送れる人として自立することを一番に願っている紀さんです。

写真は2004年の博愛園の「門出の式」で退園する子どもへお祝いのお話をしている紀さん

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(3)家族

 紀さんにとっては、博愛園は(職場では無く)「家庭」であり、そこで生活する(した)子ども達は「家族」でした。博愛園で生活した子ども達は何歳になっても愛する息子・娘・孫であり、 その子(息子・娘・孫)からも「おかあさん」「お母様」「おばあちゃん」と呼ばれていました(います)。

 高知慈善協会から給与をもらっていた職員であったことは間違いありませんが、現場の「家庭」での役割は「親に代わっての(職務)」という意識よりも、「母親になりきる」という強い意志で子ども達と生活をされてきました。家族での生活なので、「一緒に寝泊りする」、「一緒に食事をする」は当然のことでした。子ども達が満足するだけの食料の確保も困難だった時期もある中で、 食卓でのコミュニケーション(対外も含む)と子ども達への教えは特に大切にされていたようです。現在も、博愛園では食事の前後に全員が手を合わせ、おいしい食事と無事を感謝し祈っています。

 現場責任者の園長となり、他の職員にも子ども達の幸せの為に親になりきって欲しいとの願望はあったと思います。全てが紀さんと同じにはいかないと理解していても、その強い意志から出る指導は職員にとっては厳しい面があったようです。例えば、産休を取りたい職員に対して、その当時の一般的な期間(休暇日数)はなかなか認めてもらえなかったようでした。紀さんにとっては、 家族(子ども達と職員)が一つの屋根の下で生活しているのだから、親が傍に居る(寝ていても何かあればすぐに対応できる場所に居る)が大原則(親として当然である事)でした。

写真は2003年の「龍馬の姪 岡上菊栄の生涯」(武井優著)出版記念会でお話をしている紀さん

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(4)頼み上手

 紀さんは、頼み上手です。頼まれてやっているという意識は無いままに動いて、後から頼まれていたんだと気付くぐらいの頼み上手です。

 皆様はこのような経験はございませんでしょうか。頼まれた時は快く引き受けたのだけど、頼まれた事をやっている過程で”何で私がこんな苦労をしなければ ...”などと。紀さんの場合は全く逆です。いつまでに何をすると具体的な約束を交わした訳ではないのに、自主的に行動してしまうのです。不思議な能力の持ち主だと感心するばかりです。

 しかし、良く考えてみると、これも現場責任者として積み上げてこられた中から 磨かれた能力だと思います。人手も物もお金も十分ではない施設のやりくりをするには、多くの人の善意・助けが無ければ到底やっていくことは出来ません。頼み上手は福祉施設の現場責任者として最も優先される能力の1つなのでしょう。頼む人の個性・能力をしっかりと見極め、決して相手に必要以上の負担をかけない。そして快く引き受けていただき、それに全身で感謝する。なんと素晴らしいことでしょう。

写真は2003年のクリスマス会(博愛園)でお話をしている紀さん

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(5)青涛の家からの手紙  ※これは2004年のクリスマスの日に、紀さんより頂いた手紙です。

十 牧場におりる霧のように地を潤す雨のように主は来られる

 きょうは12月23日待降節おわりの日となりました。待望の救い主はもはやすでに吾が家の戸口に立っておられます。なんとよろこびと感謝にみちあふれた今の季節でありますことか・・・・・・。それにしましても、私はまことに申し訳ない御無沙汰を長い月日にわたっていたしました。おどろきと恐縮のおもいでいっぱいでございます。なにとぞお赦し下さいませ。

 去る12月8日は青涛の家の誕生日でありました。ついこの間生まれたばかりと思いますのに、早くも16年の歳月が経ちました。来る日、くるひを毎日無我夢中になって、姉妹達と心をあわせて暮らしている私達にとって、余りにもすぎゆく年月が早く、老いの身を覚えずには居られません。今年は殊のほか、台風や地震など異常気象のもたらす災害が連続して起こり、大変でございましたね。その度、私達はあなた様はじめそちらの皆様はいかがでありましょうといつもお案じいたしながら、ただ祈るのみで、そのままに打ちすぎ大変失礼いたしました、遅ればせながらお見舞い申し上げます。当方青涛の家では、台風ごとに屋根瓦や立ち木が吹きとばされ、根こそぎ掘り起こされておどろきましたが、これらのことは被害の部類には入りませず、その度毎に新芽を出して起き上がっております。

 青涛の家族は、今年も変わりなくあなた様はじめ多くの愛のかたがたにささえられ苦難、困難の中から新しい人生を見出し、希望にもえて幾人かが門出してゆきました。ありがとうございます。今年の特徴は、よろこびにつけ、苦難につけ青涛の家に里帰りしている家族の多かったことです。創立のころ、この家で生まれた赤ん坊も、もう今では高校生になっていることをおもう時、又幼少期母親と一緒にここで育った子供達がすでに大学を卒え社会のまっただ中で奮闘していることを、この里帰りの母子の笑顔と姿の中に見出す時、私達のよろこびと感謝は何にもたとえようがありません。又、苦難のさけびをあげて私達にしがみついてくるその時、私達もまた青涛の家の存在といのちの重さを痛感し、更なる必要を覚え、再起に向かって祈らずにはいられませんでした。その絆は強くなっても切れることはありません。いつものことながら、毎年のクリスマスには人それぞれの年間の体験した苦楽を幼きイエスさまに献げものといたしますが、それはまことに貴重な感慨深い「ささげもの」でもございますと共に、幼児の虐待や死、その他目をおおうばかりの残酷な社会世相や戦争、その他の世界世相をおもう時、私は自己年齢の現実の上に、現社会の新たな必要に対応する新鮮な感覚がもっともっと欲しいと希っています。

 最後にうれしい感謝のニュースをお知らせします。高知ボランティアビューロー所長であり、又この青涛の家の柱でもあるシモンズ・レオナルド師は、去る11月15日、東京で社会貢献支援財団の猪熊会長様より社会貢献賞をちょうだいいたしました。常陸宮、同妃殿下の御臨席の御前で、又来賓のバチカン国駐在大使の祝辞もいただきました。シモンズ師は、「私はとるに足りぬ者ですが、高知ボランティアビューローの小さな存在と働きを認めていただいたことは、何よりうれしいことです。これも一重に私と心を併せて下さった協力者のたまものです。私は今80才に近いですが、いのちのあるかぎり親業講座その他に全力投球したいです。」これはシモンズ師のメッセージです。

 それでは幼きイエスさまの特別な御祝福と御恵みがあなた様と御一同様の上に豊かにありますようお祈り申し上げます。

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(6)主の平安

 すっかり御無礼御無沙汰のうちに今年も残り少なくなり、はや待降節にはいりました。

 あなた様はじめ御家族の皆様方には、お変わりございませんか、お伺い申し上げます。

私達方「青涛の家」はいつものように皆様方のあたたかなご愛情とご支援をたくさんちょうだいいたしまして、おかげさまで毎日をよろこびと感謝のうちに、互いに助けあって元気にすごしております。この年のはいじめに小さな天使のような赤ん坊が若いお母さんと一緒に家族入りしました、そのことはとてもうれしいことでしたし、又何人かの姉妹達が心いやされて家庭に社会に復帰してゆきました。又、通所や電話相談に移行して「青涛の家」との関わりを継続している数人もありまして相変わらず多忙の中に喜びの日々がつづいております。この1年を通じて超現在を生きる若い姉妹達が、その身辺や社会の汚濁や暴力等から、かろうじてのがれたどりついた「青涛の家」での安著にみちたくつろぎの生活は何ものにもまさる大きなよろこびで「私はだいじな者、かけがえのないだいじな存在」と気づいた彼女達がそこから再出発し、こころのいやしを得てあらたな次の生きた人生への旅立ちがはじまります。このことはすばらしい「時」と「場」を与えて下さった神さまからの贈りものです。まあ、なんとしあわせな「青涛の家」でしょう。

 きょうは12月8日、無原罪の聖マリアさまの祝日で、「青涛の家」の誕生日でもありました。ジモンズ師は九州に出張で私達は例年のようにみんなでこの日を祝いました。私達をだいじに見守って下さる皆様から、おもいもかけなくカードや贈り物をいただきまして、早くもクリスマスの到来を身に感じ一同で感謝の祈りをささげました。その夜、私はいつものように番犬と猫をお供にして庭を散歩しました。月光を浴びた庭に名残の野地菊が庭一面に芳香を放ち、真夏の花白いジンジャーもまだに咲いてここにも甘いかおりがただよっています。冬期に強いオキザリスが昼間は色とりどりに咲いているのですが、夜はその花瓣をきれいに巻いているので、今はさだかに見えません。こちらの一角にある紫陽花の木立は暗くなっていますが、数回の台風にも負けずいまだに落葉もしないで、きぜんとしてその存在を告げているのには胸が痛みました。さまざまな草木が雑草と仲良くまじりあって共存しています。さながら「青涛の家」の行き方そのもののようで「神よ あなたの手によってつくられた大空をあおぎ 月と星をながめて思う 人とは何者か なぜ人に心を留められるのか なぜ人の子を顧みられるのか……。」詩編の一節をことばに出してしばし天を仰ぎ祈り涙して部屋に戻ってきました。神の愛、「青涛の家」をとりまいて下さる数多くのかたがたの愛、そして、なんと喜びと感謝にみちた私達の朝夕、毎日、年間そして16年に及ぶ「青涛の家」のいのち、又ここで出あい、分ちあい、生きてきた数多くの女性、姉妹たち、すべては神の御はからいで、絶妙なきわまりない御摂理に、あらためて私は更なる感謝の祈りをささげました。

次の主日はリースのローソクが3本になります。御降誕も間近になりました。

 私達の王、主は来られる

 神さまあなたの御恵みに感謝します どうかあなたさまの御恵みと御祝福が

 「青涛の家」をこよなく愛してくださるかたがたの上に豊かにありますように。

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(7)おばあちゃんの遺言

 武田紀さんは毎年、博愛園の門出の式(退園式)に招かれ、園を巣立つ子ども達にお祝いのお話しをしてくださいます。

そして、いつもお話の最後に「おばあちゃん」(岡上菊栄)から受け継いだ魂(理念)について一言語られます。

以下は、「高知の女性の生活史・ひとくちに話せる人生じゃあない」(企画発行:財団法人こうち男女共同参画社会づくり財団)に寄稿された武田紀さんの文章よりの抜粋です。

 1947年4月、私は博愛園園母の岡上菊栄おばあちゃんの面接を受けた。そして宿願の博愛園保母に採用され、1ヶ月間おばあちゃんと起居を共にし、いわゆる「おばあちゃんの遺言」なるものを直接伝授された。いまに、その一言、一言葉が私の身に染み付いている。それは一貫して神の愛と人間の尊厳について、また園の子どもたちとのかかわりについてであった。これらは全て園の理念として高く掲げられ、園が存在する限り消失することはない。私はこの理念に3千年昔のある詩人が詠んだ詩を更に付け加えたいと希っている。

 「神よ あなたの手によって創られた大空を仰ぎ 月と星を眺めて思う 人とは何者か なぜ人の子を省みられるのか あなたは人を神に近いものとし 栄と誉れの冠を授け 創られたものを治めさせ 全てのものをその足元に置かれた 羊も牛もことごとく 野のけもの 空の鳥 潮路を泳ぐ魚の群れも」

 神は天地創造の大昔、ご自身に象って人間を創られ、最も愛するものとして全てのものをその手に委ねられたとあるように、私たちの命は神からの賜りものでかけがえのない尊厳な存在であると私は強く信じている。

写真は今年(2006年)の博愛園の「門出の式」で退園する子ども達へお祝いのお話をしている紀さん

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(8)青涛の家からの手紙

十 牧場におりる霧のように地を潤す雨のように主は来られる

 昨夜来の静かな小雨のふる庭に立って、私はしばらくの間、目をこらしてわが家(青涛の家)の雑草園を眺めていました。何と不思議なことに、風も音もない夜明けの庭に、いつの間にか一面に黄金の「いてう」のじゅうたんは深々としきつめられ、そこにはえもいわれぬ野路菊のかおりが立ちこめていました。なんとあったかで平和ですばらしい朝のおとづれでしょう。

 きょうは、12月8日で、無原罪の聖マリアさまのお祝いの日であり、また私達青涛の家の18回目の誕生日でもあるのです。大きなよろこびと感謝の祈りをささげました。いつものことながら、今年も長い月日にわたって、御無沙汰、御無礼を重ねてまいりました。なにとぞ御容赦下さいませ。あなた様をはじめ御家族のみなさまがた、いかがお過ごしでございましょうか。お伺い申し上げます。最近は、世界的に大変の多い時でございますので、どうかお変わりなくつつがなくおいでますようにと、せつに祈っております。私方は、おかげさまで一同毎日を喜びと感謝の中に、それぞれが人間性の回復にいそしんでまいりました。

 私達の青涛の家は、ついこの間生まれたばかりとしか思われませんのに、いつの間にか18才となり、児童福祉法で言えば、もう子供ではなくなりました。毎日を文字通り無我夢中で懸命に生きてきましたので、この年月は感慨無量でございます。神さまの大いなる御はからいと、あなた様はじめ数多くのかたがたの愛と大きな支援のおかげさまで、こんにち迄青涛の家は成長しつづけてくろことが出来ました。ありがとうございます。この年月の間私達の家族となった姉妹達は、北海道から鹿児島迄、国内だけにとどまらず、南米、東南アジア、アフリカ等11ヶ国からの労働者、留学生、研修生や結婚の破たんなどにより、SOSを求めてきたかたがたでした。又、国際ボランティアとして駆けつけて下さった国外のパラグアイ、ブラジル、アルゼンチン、韓国、中国、ベルギー、フランスなど7ヶ国のかたがたからも大きな協力をいただきました。

 青涛の家は、シモンズ師の徹底的に人権をまもる立場から関係機関を除いて社会一般には、その所在地、内容など一切公開いたしておりませんが、昨年と本年は全くの例外として、当地の女子大学のJICA事業のDV研修の一部分に協力し、研修生を短時間ではありましたが、招待いたしました。今年は、去る4日にボンジュラス、アフガニスタン、ガーナ、イラン、パラオ、タイ、ニウエ、ネパール等8ヶ国の有力な専門家のかたがたでした。人間の尊厳に基づいて愛と正義と平和の働きに貢献するかたがたとの交わりは、短時間とは言え互いに大きな収穫であったことをよろこび感謝しています。

 青涛の家は、おかげさまで18年間の成長をつづけることが出来ました。最初のシェルターの開拓時代はすぎました。昨今、ここで生まれ、又幼児期を母親と過ごした子供達は、もうすでに大学、専門学校を卒え、福祉の道を選んだ若者も多くなりました。最近国内外から私達のもとに里がえりし「生きる」「いのち」「虐待」「いじめ」「自殺」「殺人」等々諸問題について、語りあうことが多くなってきました。

 青涛の家の展望、役割、使命についてしきりに私達はおもいを深くしています。共に私自信をふりかえり「心のにぶい者にはわからず、おろかな者にはさとれない」という詩篇の一ことばそのまま私をみつめ、深くうなづいています。

 私達の大切な柱であるシモンズ師についてちょっと記します。シモンズ師は過去10年来体調を崩され、大変の中にありましても、その気配は他にはいっさい見せず、いのちがけで高知ボランティアビューローでの数々の事業と又、青涛の家での活動をされて来られました。

 つい最近、「生死表裏一体」の四個の重病をかかえもっているので、健康管理には、特に要注意との医師の宣言を受けました。私達には大きなショックでしたが、御本人はそれならば尚更今迄とり組んできた「シモンズの親行グループワーク」について、日本の現状をみる時、生きて動くことの出来るかぎり、こころある人々と共に継続してゆくと更なる熱意をもやしておいでます。

 上の次第でございますので、なにとぞ今迄同様、みなさまがたの祈りで応援なさって下さいませ。

 終わりに、きょうのようなあたたかな静かな冬の日が、いつ迄続きますことか、天変地変の多い今の世にあって、苦悩している世界のきょうだい、しまいたちのことを思います時この自然の恵みさえも受けることを申し訳なく心が痛みます。12月に入り毎日のようにみな様方からあたたかな贈り物がいてまいります。感謝かんしゃでございます。主の御降誕の日が近づいてまいりました。救い主イエス様のかぎりない愛と恵みと御祝福があなた様はじめ御一家の皆様方の上に豊かにありますようにお祈り申し上げます。

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(9)無給・無休・無窮

 武田紀さんは博愛園を退職後、1989年(平成元年)にシモンズ神父様が有志の私財と信者の寄付により開設した「青涛の家」(民間シェルター)の代表となり、DV(Domestic Violence ドメスティック・バイオレンス)などで心身共に傷ついた女性を無条件に受け入れ、心が安らぐまで世話をされてこられました。 また、入所者のプライバシーを保護する為に公的援助は受けずに運営されてきました。

 そのボランティアの精神はシモンズ神父様より大きな影響を受けているようです。根本は「徹底的に人権をまもる」「人を大事にする」ということです。そして、「何をするか」(自己満足)では無く、「何が必要であるかを考えることから始める」(他者への無条件の肯定的配慮)が行動の原点でありました。

 結果として、そのボランティア活動は無窮(きわまりなく)・無休(活動=生きている証)・無給( 活動を継続する責任)の3つの「ムキュウ」で成り立っているということです。

 今年(2007年)3月に82歳になられた紀さんは、今もシモンズ神父様の教えを大切にされている方々と共に無給・無休・無窮の(ボランティア)活動をされています。

2007年3月 武田紀さんのお誕生日パーティーにて
 

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(10)青涛の家からの手紙

十 主の平安

 すっかり御無沙汰 御無礼の中に今年も慌しく月日が過ぎ去ってしまいました。

 青涛の家をこの上もなく愛し、だいじになさって下さいますあなた様には、お変りござおませんかおうかがい申し上げます。今年も世界的に異常気象や事象があまりにもありすぎまして、その都度いかがかとお案じ致しながら失礼ばかりでございました。御容赦下さいませ。

 私の方は今迄になく今年は変事もいろいろございましたが、それぞれに適応出来ましたことは、日ごろ、いつどんな時にも、あなた様はじめ多くの厚意あるかたがたの援助によって、すべてが順調に「生きる」ことのできてきました、青涛の家そのものの「あかし」にほかなりませんとひたすらに感謝いたしております。

 ついこの間のことのように思われますのに、もう一ヶ年が経ちました。昨年のクリスマスのあと27日の早朝、突然脳梗塞でシモンス師は人に知られずたおれておりました。緊急の援助を受けることが出来まして、今年の夏ごろ迄、療養の為、入退院を繰り返しておりました。この間御存知下さったかたがたには、大へんな心配をおかけいたしました。また、ねんごろな御祈り、お見舞いをいただきましてまことに有難うございました。おかげさまで、重い病気を四つももった病状は相変わりませんが、ただ今は小康を保っておりますので、なにとぞ御安心くださいませ。かねてよりの念願でありました「シモンス師の親行講座」は残念ながら断念し、今ではもっぱら御自分と同じに死に直面している病者のかたがた、又生きる希望をうしなったかたがたとの交わりの中で、存分にシモンス師としての使命を果たされている状態で、それを側面から見聞きし、私達も日々感謝と感動の中に過ごしております。母国ベルギーから又アラスカからも看護、介助に姉妹たちや助け人があらわれてくれました。毎日を死に直面しながらいのちあるかぎり、手足の動けるかぎり使命に生きようとするシモンス師を通し、青涛の家の私達もまた神様の絶妙な御はからいに、ただただ感謝、感動し、よろこびにこころはずませ「生きる」ことにひたすら余念がありません。こうした経過の中で、去る11月27日には、高知女子大学JICA事業に今年も”ドメスティック バイオレンスと女性”の研修に関連して青涛の家も、ネパール、シエラレオネ、メキシコ、コンゴ、インドネシア、ベトナム、ウズベキスタンの八カ国から9名の代表者を迎え、研修会、交流会をもちました。今年で3回目で双方よろこびと感謝の中で、大きなみのりを得ることが出来ました。また、12月8日は、青涛の家の誕生日で創立19年目を迎えました。何もないなかから、シモンス師のもと数名のボランティアが毎日のように労働を通じてすばらしい青涛の家をたちあげました。このことも大きな神の絶妙な御はからいにほかなりません。ドメスティック バイオレンスについては、高知県も、もはや公的な機関として制度も設備も完備しましたので、開拓的な立場での青涛の家の働きも更なる局面に向かって、今後も日々、あらたな歩みを着実に果たしてゆきたいと希っています。

 今年は、シモンス師への見舞も兼ねて青涛の家への里帰りのグループが沢山ありました。彼女達のねがいは、青涛の家の存在が単なる「緊急避難の場所」だけでなく、ここで結ばれた絆がただいのさまざまな人生の中で、いつも生かされ切れることのない心身の「いやし」の場であってくれますように・・・・・・。これは、彼女達の老若にかかわりなく、共通の悲願だということでした。私は彼女達の声に耳を傾けながら師走に入り、毎日夜明けと真夜中には庭に出て夜空をながめ、はるかな月と星を指でなぞりながら「神をたたえよう、主は近づいておられる」と声を出して、かすかなその御足音を今こそこの耳に、そして今こそこの青涛の家にお迎えしたいと切望していますとともに、やがておむかえするみどり児イエス様にその特別な御恵みと御祝福を全世界の人類の上に、わけても発展途上にある国々の尊厳なる「いのち」が最も危機にある子供達の上に、又予期せぬ災害の犠牲となられた亡き人々の上に豊かにありますよう祈ります。

 終わりに、今年も残り少なくなりました。あなた様と御一家のみなさま、よきクリスマスと新年をおむかえなさりますようお祈りいたします。

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(11)シモンズ神父様ありがとう

 シモンズ・レオナルド神父様、神父様は私たちの中に今もおられます。神父様に出会えたこと、神に感謝。

生誕  1925年7月31日

叙階  1953年7月  5日

来日  1955年8月16日

帰天  2008年6月  5日

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